現代アート講義
あいちトリエンナーレ2019、日本赤十字社の「宇崎ちゃんは遊びたい」×献血コラボキャンペーン、フジロックでSEALDsが演説した時の「音楽に政治性を持ち込むな」発言など、芸術と政治の話題が世間を賑わせている。
確かに、あいちトリエンナーレの騒ぎにはうんざりしたが、実は、現代アートがこれだけ話題になることも珍しいので、個人的には密かに嬉しく思っていた。
表現の自由は、ヘイトや差別を許すのだろうか? どんなエロ表現も可能とするのだろうか? 天皇や日本をディスることも芸術にしてしまうのであろうか? SNSでも、街でも、誌面上でも様々な意見が飛び交い、数々もの論争が起こった。しかし、議論はすれ違い、噛み合わない。
そもそも、ヘイト/差別とは、あるいはエロとはなんなのだろうか?
そして何よりも、芸術とはなんなのだろうか?
つまり、議論は空中戦の様相を示していると言って良いだろう。互いが互いのことを「ヘイト」「エロ」など同じ言葉を使って非難しあっているが、どうもこれらの言葉はそれぞれの人で意味が違うので、議論は全く噛み合わない。まさしく空中戦である。不毛なこと、極まりない。
日本人にとってのアートとは?――なぜアートを語って話がすれ違うのか
どうも日本では、芸術とは人々の心を感動させるのを主目的とした作品だと思われているようである。一言でいえば、「芸術はエンターテイメントだ」ということになるだろう。であれば、芸術に政治を持ち込むな、という意見が出てくるのも分からないでもない。せっかく美しくて心地よい芸術作品を楽しんでいるのに、政治的話題というノイズを混入して邪魔をしないで欲しい、というわけだ。
確かに、政治は厄介な問題である。人は当然それぞれ政治的見解が違う。そういった中でも、わりあい意見の同じ人と仲良くなり仲間同士で集団を作るわけだが、そのグループの中でさえも意見の不一致が出てくることは避けられない。また、初対面の人が集まるパーティでいきなり政治や宗教の話題を出して、場を荒れさせてしまうのも不調法だと言われる。明らかに政治的主張の違う人と一緒になった時には、なるべくその話題には触れずなんとかやり過ごすことも時には必要かもしれない。
当然、自分の愛する作品を創ったアーティストとだって意見が一致するわけはない。美しい作品を生み出す作家や、素晴らしい業績――論文や学会での発表など頭のよさそうな代物――をものにしている研究者だからといって、人格が伴っているわけではない。残念なことではあるが、それが現実だ。であれば、人格や政治と切り離して、純粋に作品を楽しめば良いのではないか?という意見が出てくるのも理解できないことではない。
要するに芸術をエンターテインメントだと考える人たちは、「私はこの作品が好きだ。この作品を純粋に楽しみたい。アーティストの人間性については色々聞くし、政治的主張には全く同意しないけれど、この作品に私が感動したのは事実なのだ。感動した私の気持ちを尊重して欲しい。そのためにも芸術に政治を持ち込むのは反対だ」ということなのだ。これを聞いて、「芸術のための芸術」などという19世紀フランスの小説家テオフィル・ゴーティエの言葉を持ち出す人もいるだろう。すなわち、とりあえず、政治的なことは置いていて、純粋に作品そのものを楽しむことが正しい芸術鑑賞のあり方というわけだ。
たとえばピカソ
パブロ・ピカソ『ゲルニカ』(1937年)ソフィア王妃芸術センター所蔵
しかし、本当に芸術から政治を切り離すなんてことができるのだろうか? 多くのアーティストや研究者は、そんなことできるわけないよ、と論陣を張った。例えば、パブロ・ピカソの『ゲルニカ』が援用される。ピカソと言えば、スペインで生まれパリで活躍した20世期を代表する前衛絵画の巨匠である。そして『ゲルニカ』と言えば、スペインの共和政を打倒して独裁政治を敷いたフランコ将軍を支援したナチスドイツ空軍が都市無差別爆撃を行なったスペインのバスク地方の都市ゲルニカをテーマにした作品である。中学校や高校の教科書にも載っているような有名な作品だ。20世紀のシンボルとも言える作品は、まさに政治のど真ん中を狙って創作されているのだ。なぜ、芸術が政治と関係ないなどと言うのか?という主張である。
もちろん、ピカソは有名だってことは知っている。『ゲルニカ』という作品も教科書で見たことある。でも、そもそもピカソの絵って前衛すぎてよく分からない。それよりも私がこの前上野の美術館で見たフェルメールの『手紙を書く婦人と召使い』を前にした時の感動は….という話になってしまうと、話は振り出しに戻ってしまう。
フェルメール『手紙を書く婦人と召使い』(1670-71)
とにかく芸術と政治を結びつけたがる人もいるけれど、「私にとって芸術とはとにかく私の感じた感動だし、芸術は作者の人柄とか政治的主張を一旦切り離し、作品そのものの素晴らしさをこそ味わうべきなのだ」という考えにも一理あるのかも知れない。20世紀末の日本で流行ったポストモダンの思想がこういう考えを後押ししたことは否めないだろう。そのポストモダンの立場とは、とにかく「なんとか主義」なんてものには囚われず、何ものにも束縛されない自由な立場で作品に接するべきなのだ、という立場だ。
芸術は政治的なものであり、それは避けることができない
それにも関わらず、芸術は根本的に政治的である。残念ながら、日本でそのことがあまりよく理解されないのは、世界を理解する上でとても重要なことがあまりよく知られていないからではないであろうか? その重要なこととは、宗教である――ここでの宗教とはユダヤ教、キリスト教やイスラーム教といった「宇宙の創造主を奉じる宗教」(ここで仏教は含まない)のことを指す。
西洋の長い歴史のなかで、芸術はただのエンターテイメントでもなく、社会にとって実用的価値のないものでも全くなかった。芸術は宗教によって存在意義を保証された有益な営みであったのである。この文脈で言えば、当然、しばしば耳にする「物理的に役に立つことばかりに予算をかけるのではなく、芸術や文学も大切にしないと心の豊かさが得られない」、という芸術擁護の台詞は多かれ少なかれ的外れということになる。
神と芸術と政治
神 × 芸術の世界
レオナルド・ダ・ビィンチ『受胎告知』 (1472 – 1475 )
*この作品は某ファミリーレストランで見たことがある人も多いだろう
神中心の宗教社会においては芸術はまさに実学の一つである、ということを理解することが必要だ。例えば、ドイツの哲学者のカントで有名な「真善美」のテーゼで言えば、美しいものは善いものであり、善いものは真であるので、美の追求は真の追求とイコールということになり、神=真とする宗教社会においては「真善美」の追求が社会にとって最も大事な営みということになる。
イマヌエル・カント(1724 – 1804)
現在のように「金」を追い求める経済原理ではなく、「神=真」を追い求める経済原理が働いている社会と言えば分かりやすいだろうか?神を中心とする世界、それは必ずしも現世での利益を求めないということである。現世での幸福よりも死後の祝福を重んじる。例えば、キリスト教への信仰を捨てて肯定を崇拝せよ、さもなければ殺すぞ!と言われた信徒が決して棄教せず嬉々として死んでいくのは、もし神を裏切れば死後地獄行きが決定しまうが、神に忠誠心をつくし生命を落とせば殉教者として他の信徒たちからが尊敬され死後天国への道が保証されるからに他ならない。ここで、信仰という言葉が信徒にとっては忠誠心の意味で機能していることを確認しておこう。 現世での財産よりも、快楽よりも、死んだ後の安寧に価値を置く考え方である。
そしてキリスト教世界における芸術といったものが宗教芸術であったことを確認しておきたい。つまり、元々、芸術作品の評価基準を与えていたのがキリスト教であったのだ。また、どうやらすごいらしいけれど正直よくわからない、と言われる前衛芸術にもキリスト教は影響を及ぼしているとさえ言える。つまり、芸術は人間が美を通して「神=真」にアクセスするための重要な手段であったのである。役に立たないどころか、最重要の営みの一つだったわけだ。だからこそ、キリスト教芸術について理解する必要がある。そしてキリスト教芸術を理解するには、まずその特殊性を強調しておきたい。
キリスト教芸術の特殊性
キリスト教芸術は、ほかの宗教芸術と一種異なる特殊な側面をもつ。この特殊性への理解が、現代アートの理解のためには重要である。日本人からすれば、仏教にだって仏像とか曼陀羅とか宗教芸術があるよね、どこが特殊なの?と思うかも知れない。しかし、仏像とか曼陀羅などは物質を神的存在として拝んでいることになる。対して、ユダヤ教から始めるキリスト教やイスラーム教といった「創造主を奉じる宗教」においては、モーセの十戒以降神を絵や像で表すことが禁じられており、仏像や仏画を拝む行為は悪魔の所業ということになっている。実際、キリスト教の宣教師は世界の多くの地域で像や絵を崇拝する文化を劣った文化として貶め、自分たちの科学技術力を背景に自らの宗教文化を押し付けてきたことを思い出しておこう。
たとえば、古代ギリシアや仏教などには神の像を作ったり絵を描いたりする宗教文化が存在する。その意味ではそういった宗教には現在我々の目から見て宗教芸術と呼べるものが存在する。対して、「偶像を作ってはならない」というモーセ以降の教えを持つユダヤ教、キリスト教やイスラーム教といったアブラハムの宗教は、これらの神の像や絵を偶像崇拝と考え自分たちより劣った存在と見做す。であるから、本来的にはこれらアブラハムの宗教には宗教芸術というものがあってはならないことになる。
にも関わらず、キリスト教においては宗教芸術が存在する。これはイエス=キリストが神であると同時に人間である、つまり人間の肉体を持った神であるという受肉の思想と、その受肉を日曜日ごとに行う聖体拝領という儀式に由来している。受肉と聖体拝領こそがキリスト教の特殊性であり、特徴なのである(音楽に関しては更なる説明が必要なので別のページで詳しく解説する予定である。)
キリスト教芸術の理解には、受肉の思想を中心にキリスト教という宗教の理解が不可欠なのだ。まず、キリスト教宗教芸術においては、神が受肉したイエスの肉体のように、芸術作品は神そのものとなる。現代芸術はその受肉を否定しつつ、美的側面から社会なり体制に権威を与える役割を担い、さらには神なき社会を人々に考えさせる機能を帯びるようになった。
現代アートと宗教
脱宗教の現代アート
このように、難解で前衛的すぎる現代アートを理解するための鍵もやはりキリスト教である。19世紀末に始まる現代アートとは神中心の社会からの脱却を讃える役目を担っていたからである。つまり、ある意味、アートは神の代わりの「機能」を有しているとも言える。
と考えれば、前衛芸術やたらと難解なのもすぐわかる。神中心の時代の芸術は明確に神という目標=モデルがあったのだ。目に見えない神を想像で描くのは確かに簡単ではないかも知れない。それでもゴールは設定されていたし、お手本にできる作品もあった。対して、現代アートはまず最初から何を描くべきかが決まっていない。それでも、何らかの主題を決め、そしてその作品が神なき社会において神を代換する機能を有し、社会に対して何らかの貢献をするものでなければならないのだ。
初心者に向けてよくなされる解説、「難しいことは考えずにとにかく感じれば良いんだ」という文句は、人々に不安を与えてファンを失わないようにするための方便に過ぎない。現代アートを理解するにはまずその理屈が大事なのだ。
アーティスト達も必死だ。自分の作品の価値を認めさせようと、必死になって作品の社会的意義を考える。そういう彼らにとって社会におけるタブーは、創作活動にとって貴重な鉱山となる。「エロ」、「天皇への不敬」や「政権批判」などいったタブーに関わる主題は、まさに権力や世間が攻撃してくるからこそ、そこには現代芸術が扱うべきテーマということになる。作品を通じてそのようなタブーを可視化させ、社会に訴えかけることこそが現代アートに課された使命なのである、とアーティスト達は考えている。
そう考えると芸術と政治が密接な関係を持っているのが分かるだろう。(つづく)
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