現代アート入門2 ヘイト編

現代アート講義2

前回は現代アートと宗教の関係について見てきた。今回は、現代アートと「ヘイト」という切り口で考えてみよう。 ヘイトと芸術の問題を考える上で重要な論点はずばり「表現の自由」である。まず、ヘイトは表現の自由の名の下に許されるのか、という問題が第一点。そしてヘイトが表現の自由には当たらず許されないとするならば「日本民族」を貶めたり天皇を侮辱したりする表現はヘイトには当たらないのか、という問題が第二点である。 これを考えるためには、まずヘイトとは何か、そして民族とは何かという問題について、知らなければならない。

ヘイトと芸術の問題をどう考えるか

 さて、では前回まで述べてきた芸術と政治との関連性を念頭において、ヘイトの問題について考えてみよう。朝日新聞2019年10月29日付の記事で師岡弁護士は「ヘイトスピーチの本質は差別で、原則的に少数派へ向かう」と言う。これが反ヘイトを掲げる人たちの一般的見解と言って良いだろう。つまり、差別やヘイトは社会の多数派/マジョリティから少数派/マイノリティに向かうものであり、「日本国内で、日本人が、日本人という属性によって外国人から差別されることは力関係の上で、基本的にはあり得」ず、少数派/マイノリティである在日から多数派/マジョリティである日本人への差別/ヘイトは定義上成立しないということだ。法務省のHPによれば、ヘイトスピーチとは「特定の民族や国籍の人々を,合理的な理由なく,一律に排除・排斥することをあおり立てるもの」とある。近代における「民族」とはある社会における 少数派/マイノリティによって形成される集団と定義されるので、ヘイトスピーチとは、上記のように「 原則的に少数派へ向かう」と説明されるのである。

画像は法務省のHPから(クリックすると開きます)

エスニシティという問題――近代の産物としての「民族」――

 まず「エスニシティ(民族性)」の定義について考えてみたい。現在、多くの日本人が大いに誤解していることなのだが、民族(英:ethnic group/仏:ethnie)の定義に血の違い、つまり遺伝子の違いは入らない。遺伝子による違いは人種(race)であり、人類を人種で分けて考えることはレイシズム(racism)=差別主義になる。民族とは、エスニシティ研究を開始したAD・スミスによれば、民族は「集団に固有の名前/共通の祖先にかんする神話/歴史的記憶の共有/一つまたは複数のきわだった集団独自の共通文化の要素/特定の『故国』との心理的結びつき/集団を構成する人口の主な部分に連帯感があること」によって定義される。要するに、民族とは血=遺伝子ではなく、文化の違いによって分けられる人類の区分ということだ。

 では、社会問題としての民族がどのように発生するのか説明してみよう。ある社会の中で多数派/マジョリティに属さない人たちは、社会の中で不利益を被る立場に立たされる。そうなると、人々は弱い立場にあるもの同士が集まり自分たちの身を守ろうとする。こうして社会の中に集団が結成され、更に彼らは自分たちの団結を強めるべく共通の祖先と神話を拠り所に自らの民族の誇りと正当性を顕揚するようになる。これが「民族集団」誕生の仕組みだ。

 となればこの民族は近代的な現象であることが分かる。「民族の伝統」という言葉を聞くと、民族問題が古代にまで遡るような印象を持ってしまうかも知れない。しかし、社会問題としての「民族」はあくまでも国民国家の発展に伴って出現した近代の出来事なのだ。

「民族」の成立と日本におけるヘイト

日本のヘイト?

 19世紀以降、列強は国を一つにまとめあげようとした。歴史の教科書で国民国家の成立と言われる事象である。例えば、19世記以前では、フランスであればフランス人ではなくブルトン人だとかバスク人、あるいはマルセイユやアルビという街の人間だという意識の方が強かったのである。日本であれば、土佐藩だとか米沢藩、あるいは千住だとか小鹿野の出身だということになるだろう。そのような様々な出自の人々を国民」の名の下にまとめ上げるべく、それまで地方ごと、藩ごと、村ごとに使われていた言葉を統一して標準語を作り出し、それを教育とメディアによって広めることで人々に一つの国の中の同じ国民であるという意識を持たせ、一つの国民からなる一つの国家という物語を紡いでいった。

 そのような統一化から漏れてしまった少数派/マイノリティの人々が集団として結束していったのが「民族」なのだ。そして多数派/マジョリティからその民族集団に向けられる差別的行為がヘイトということになる。

日本の事情、同和問題、保守…

 ところが日本の場合、ある事情が事態をややこしくしている。同和問題、そして民族集団としての行動する保守の出現の二つである。

 同和問題は日本の差別としてよく知られている。彼らには上記のAD・スミスの民族の定義が見事当てはまるのだ。となれば、彼らは独立した「民族」ということになる。ところが、彼らは自らを別の民族とは見做さない。日本人として他の国民と同じ権利を要求しているのである。定義としては民族だが、本人たちが認めないので民族とはならないという例なのだ。

 二つ目の問題を見てみよう。一般に民族とは弱者の問題ではあるが、強者の側が集団を結成し強い仲間意識を持つことがないわけではない。例えば、アメリカで黒人への激しい弾圧を行った白人の集団であるKKKが挙げられるし、近年ヨーロッパに現れたネオナチもそうだろう。これは、弱者の人権を保護しようとする運動への反動と理解することができる。最近の日本に起きているヘイトも同種の運動の延長上にあるのだろう。

 これら二つの事情が日本のヘイトの問題に特殊な影を落としている。ヨーロッパであれば少数民族に多数派/マジョリティへの同化を強いるのは差別的行為と見做されるが、同和の人々が他の日本人への同化を望んでいることから、日本には昔から日本人しか住んでおらず、みんな日本人になれば差別はなくなる筈だという無邪気な思想を振り回し始めたのだ。この場合、その日本人に同化できない人間は外国の手先であり、それを支援するものはサヨクという売国奴ということになる。

表現の自由という問題

多数派×少数派?

 これに「表現の自由」の問題が絡む。『平和の少女像』で話題になった「あいちトリエンナーレ2019」への対抗措置として、「あいちトリカエナハーレ2019『表現の自由展』」が開催された。「あいちトリエンナーレ2019」には慰安婦問題を想起させるキム・ソギョン/キム・ウンソン夫妻の『平和の少女像』と昭和天皇の肖像が燃やされている映像を使った大浦信行の『遠近を抱えて Part II』が展示された。これらの作品は表現の自由の原則の下、公の美術館で展示する価値があるというのが主催者側の意図だろう。それに対して、この展覧会に反対の立場を取る人々が対抗措置として「あいちトリカエナハーレ2019『表現の自由展』」を開催したのである。「トリカエナハーレ」には、例えば、「犯罪はいつも朝鮮人」と書かれたカルタが展示・販売されるなどしており、愛知県の大村知事はこの催しをヘイトと断じた。

「トリカエナハーレ」の主催者からして見れば『平和の少女像』や『遠近を抱えて Part II』といった作品は日本を侮辱したり天皇陛下を貶めるヘイトであり決して許すことができないということになる。そしてこれらの作品が表現の自由の下に許されるのであれば、「犯罪はいつも朝鮮人」というカルタも表現の自由の下に許されるべきではないかというのが彼らの主張だろう。つまり、天皇を侮辱したり慰安婦を擁護したりするといった日本へのヘイトが行われるのであれば、我々も在日や左翼に対して報復のヘイトを行なうぞ、ということだ。

 実際、在日やサヨクに対する抗議がヘイトとなるならば、そのような抗議を行う愛国者へのカウンターもヘイトと見做す、という主張は相変わらず根強い。それに対しては「ヘイトの本質は原則的に多数派からの少数派への攻撃であり差別である。そして表現の自由は差別を許してはいない」といくら説明しても、彼らは聞く耳を持たない。

 これにはやはり上記の事情が大いに作用しているのだろう。彼らは、日本に住んでいる人間がすべて日本人になれば差別はなくなる筈だと信じているようなのだ。となれば、その日本人とは別の民族を名乗る「在日」や「沖縄」や「アイヌ」は日本に分断をもたらし、日本に差別をもたらす悪い奴らだということになる。そういう主張にとって、同和問題の被差別者が独立した民族を主張せず、日本人に同化することを望んでいることは好ましいモデルとなる。

みんなで一緒に日本人になって差別のない日本社会の実現に尽くすべきだいう無邪気な人たちにとっては、在日、沖縄やアイヌなど別民族を主張する人間は敵国のスパイであり、それを馬鹿なサヨクが支援しているということになる。そもそも日本が国民国家政策を押し進めた時、統一の犠牲になり消えていった小さい地域文化も多数あり、そういう歴史の上にせっかく日本という立派な国が成立しているのに、沖縄やアイヌの人間が自分たちの固有の文化にこだわり同化を拒むのはずるい、というわけだろう。彼らが少数派の権利に極端なまでに不寛容なのはこの「ずるい」という感覚ではないだろうか?

 このようにして、多数派/マジョリティである強者の側に、強い民族アイデンティティが発生し、しかも政権に近い政治家がそのような流れに乗ってヘイトを後押しするという事態が出来した。

 彼らは日本民族の誇り掲げ、表現の自由の名の下にヘイトを肯定する。しかし、そこには矛盾があるだろう。彼らの主張は、自分たち日本人は偉大であり強者であると誇りつつ、自分たちは戦勝国や中韓朝の汚い政治宣伝によって汚名を着せられている弱者であるとしているからだ。こうなっては日本が強い国なのか惨めな国なの分からない。

  アートにおける「表現の自由」を掲げればヘイトは許されるのか、という問題を考えるためには、まずマジョリティとマイノリティの問題からヘイトとは何かを理解し、ヘイトは表現の自由によっても許されるものではないということを肝に銘じておかなければならない。そのためにはマイノリティとしての民族はもとより日本における事例のように文化的な特徴を考慮する必要がある。民族や差別に関する問題にはタブー視されていることが多い。そのタブーを破れば人目を引く作品を作ることはたやすいように思えるかも知れない。しかしヘイトに手を出すことは芸術の社会的役割を考えれば決して好ましいことではない。確かに、芸術にはタブーに挑戦し人々をわざと不快にさせる機能がある。しかし、全てが許されているわけではない。何がヘイトで何がアートかについて建設的な議論を重ねていくことが大切だろう。

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