現代アート入門3 エロ編

現代アート講義3

 さて、今回は現代アート講義の第三回目である。前回は、宗教とヘイトとという視点から現代アートについて考えてきた。今回はエロと現代アートである。

前回までの内容:
 現代アート講義1 宗教編
 現代アート講義2 ヘイト編

エロという視点

 日本赤十字社が漫画『宇崎ちゃんは遊びたい』を基に作ったポスターに描かれた女性の胸が、不自然に強調されているとして非難を浴びた。

 その論点は二つある。一つ目は女性を消費される客体として描いているという批判、二つ目は性的な絵を公共の場に置くことは一定の人々に不愉快な思いをさせるので不適切であるという批判だ。

 一つ目から考えてみよう。確かに、この『宇崎ちゃん』は男性向けの漫画である。しかし基本は大学を舞台としたドタバタラブコメディであり、決してエロ漫画ではない。主人公の男子大学生が、ヒロインの生意気な後輩に絡まれ振り回される様子をコミカルに描いている作品だ。

  
   

『「宇崎ちゃんは遊びたい」の献血PRポスターはセクハラ』との批判と、それに関する議論

もとは英語ツイート。そこから、赤十字社の問い合わせに意見を送る方もいらっしゃいました。

 もちろん、ファンとして男性を対象しているので、ヒロインが必要以上に可愛らしく描いているのは確かである。というわけで、当然女性から見れば「こんな娘いないよ」となるだろう。

 それにも増して、やはり男性の読者にアピールするべく、ヒロインの体を色っぽく描こうとしているのは明らかだ。つまり、バストの大きさを強調しているばかりでなく、それぞれの乳房の様子が服の上からでもわかるように「乳袋」と呼ばれる二つの膨らみをはっきりと描く手法を使っているのである。

 男性の読者を満足させるべく現実の女性とはかけ離れた空想上の女性を描けば、それは女性を消費される客体として扱っているとして、非難の対象になる。しかし、何かを描く場合、客体として描かないということが果たして可能なのだろうか? 現実そのままに写すこと可能なのだろうか? 

 率直に言って、不可能だろう。どんなに正確に現実を描写しようとしても、そこには作者の解釈が入ってしまうからである。

表象の分析とE・サイード

表象の分析?

 このことは表象(represetation)分析の問題と言える。エドワード・サイードというパレスチナに出自を持つアメリカの比較文学学者が『オリエンタリズム』という著作で用いて一躍脚光を浴びた手法だ。すなわち、描かれ方=表象のされ方の中に、社会問題の構造を読み込むという手法である。

ウジェーヌ・ドラクロワ《アルジェの女たち》 1834年 オリエンタリズムを代表する絵画のひとつ

サイードは19世紀の小説や絵画などにおいてアラブ人が何やら怪しげな魅力に溢れ、不思議な力を持っているものとして描かれていると指摘する。対して、西洋人は勤勉に仕事に取り組むことで近代文明を発展させた普通の人々として描かれる。 そして、宗教に基づく何やら妖しい東方世界(オリエント)と科学文明に支えられた西洋世界を対比させることで、後者が前者を植民地支配することを正当化しているのではないか、とサイードは問いかけたのである。

つまり、東方と西洋の表象の仕方に西洋諸国の植民地支配の構造が表れているというわけだ。この際、アラブ人はいかに魅力的に描かれていようと、西洋人の観察の対象にしか過ぎず、客体でしかない時点において被支配者の役割を押し付けられていることになる。

 サイードのこの読みは、アラブ世界を侵略し支配下においた西欧の価値観を批評する上で見事に機能した。西洋中心主義的視線に反省を促す役割を果たしたのである。そして、彼に影響を受けた研究者たちが次々と表象の分析に身を投じ、カルチュラル・スタディーズという流れを作っていった。

 確かに、サイードの研究に意味はあったのだろう。しかし、この研究法には実証性に欠けるという問題がある。表象の解釈の可能性は広く開かれており、ある解釈が面白いか面白くないかは言えても、正しいかどうかの検証は基本的に出来ないからだ。

ジェンダーとエロの問題を考える視点

 ここで、ジェンダーの問題に当てはめて考えてみよう。男女の平等が達成されておらず格差が現実にある状況では、男性の作り手が男性のファンに向けて描いた表象に、男性による女性の抑圧の構造が組み込まれてしまうのは当然である。ということは、どのような読みを展開しても、宇崎ちゃんの表象に男性による女性支配の徴が読み取れるという結論になる。結論が決まっている以上、解釈が面白いかどうかという評価はできてもその論証が正しいかどうかの議論が成り立たないのは当たり前だ。決まっている結論に落とし込むことは、論証ではなく説得と言うべきだろう。

 男性誌と女性誌の女性表象を比較し、その違いから社会構造を分析するという研究法は有効なのに対し、任意の絵を取り上げてそれが男性目線で描かれているか女性目線で描かれているかを証明するのは極めて難しい。女性が女性の身体を色っぽく描くこともあり得るからである。

 問題は、描かれる対象は全て客体であるということだ。そしてその表象は何らかの社会構造を内部に組み込むこととなる。個人的あるいは社会的なバイアスがかからない表象などあり得ない。様々なバイアスに基づいた様々な解釈が、検証されるのではなく、ただ並置され続けていく、それが表象研究の魅力でもあり、問題でもあるのだろう。

 この状況で、女性を客体として描いているからダメなのだ、という主張は、どの程度まで妥当なのだろうか?そんなことを言ってしまえば、現在の男性向け媒体の全ての作品は、たとえエロではなくても、公共の場にさらしてはいけないことになる。先ほど、エロの指標としてあげた乳袋でさえ、現在では女性を魅力的にアピールするべく少年誌にまで広がっている。だとすれば、少年誌の図像ですらも、男性視線から描いている媒体として公共空間から排除されなければならないのだろうか? 

 また、女性スタッフによる女性向けのポルノというのは既に存在するが、それらは女性を完全に客体として扱っていないと断言できるものなのだろうか?何よりも、作者が男性であれ女性であれ、対象を客体として描かない作品などありはしない。女性誌における男性表象も現実とは違う表象に過ぎないし、それは同性を描く場合にも事態は変わらないだろう。

 確かに、男性向けの媒体の表象の中には女性が不愉快に感じる図像が多々あることに疑いはない。それは女性だけではなく男性でさえも不愉快に感じるものもあるだろう。しかし、私が不愉快だからという曖昧な理由で規制して良いものだろうか?

 もちろん性的な表現を公共空間に掲げて良いわけではないし、男性の側から女性への配慮はあって然るべきである。しかしだからこそ、判断基準を曖昧なままに空中戦のような議論を続けても、どれほどの意味があるのだろうか?

 そもそも何をもってエロとするかについても絶対的な基準があるわけではなく、社会が抱える背景によっても違ってくることを指摘しておきたい。

「エロ」の定義と文化の問題

「エロ」って文化によって違いがあるの?

 たとえばある日のこと、友人のフランス人ミュージシャンたちが、 同じバンドの女性歌手から回ってきたという日本のある動画について聞きたいことがある、と言ってきた。その動画には「全裸オーケストラ」と横断幕を掲げた舞台の上で、裸の女性たちが吹奏楽を演奏している様子が写っていた。彼はこの催しにはどういう宗教的意味があるのか?と聞いてきたのである。もちろん、ただのポルノで宗教的意味などありはしない。ところが彼は、宗教的意味がないのなら何でこんなことするんだと首を傾げていた。しかしネットで「全裸オーケストラ」と検索をすれば、この作品が某有名メーカーのAVであることがすぐにでも分かる。

 しかし、彼らはなぜ宗教的だと思ったのだろうか?

 しばらくして、2015年にイギリスで開催された「世界全裸自転車大会」(World Naked Bike Ride)において、局部を興奮させた男性が警官によってつまみ出されたという記事を新聞で見つけ、参加者の「本当に恐ろしい光景でした、みんな礼儀正しく裸で乗っているのに、その男性だけ“発情”していたんです」という文言を読み、なぜキリスト教世界で裸に宗教的意味があるのかに気がついた。

 旧約聖書のアダムとエバの話を思い出してみよう。彼らは神に禁じられていた林檎を口にしてしまいエデン=楽園から追放される。これが原罪である。彼らは林檎を食べたことによって自分たちが裸でいることを恥ずかしく思い、イチジクの葉で股間を隠すのである。裸を恥ずかしく思う彼らを見て、神は彼らが言いつけを破って林檎を食べたことを知る。そして、彼らを地上に追放する。失楽園である。

ルーカス・クラナッハ《アダムとイヴ》 1526 年

 つまり、ヌーディズムとは人類が罪を犯す以前の状態を希求して行われる宗教的な営みであったのだ。もともと、ヌーディズムは禁欲を強調したプロテスタンティズムが勢力を誇っていたドイツの地で、19世紀末に起こった運動であることを指摘しておこう。

 世界全裸自転車大会にせよ、パリの現代美術館パレ・ド・トーキョーで2018年5月5日に行われたという全裸での美術作品の鑑賞会も、日本人から見れば変態さんの行事に見えてしまうかもしれない。しかし、宗教的背景を合わせてみれば、変態とは正反対の企画であることがわかる。つまり、裸を見ても興奮せず清い心を持ち続けていることを誇る運動なのである。

というように、何をもってエロと見做すかは文化によって様々であり、個人の不愉快だとう感情で安易に判断を下すことなどできないはしない。

 重要なのは、エロかエロじゃないかという問が決して◯か✖かの二択では答えられないことである。これはエロだけに限らない。例えば、インフルエンザワクチンは危険か危険じゃないか? や、市街地を飛ぶ軍用機に墜落の危険はないのか? などといった問題が挙げられるだろう。ワクチンには必ず副作用があり100%安全ということはありえないし、絶対に墜落事故を起こさない飛行機は存在しない。重要なのはリスクを取る代わりにどういうメリットが得られるか、という議論なのだが、日本では絶対安全を求める人がいまだに数多い。

 テストの選択問題に慣れているせいなのか、正解と不正解が簡単に決められると信じてしまう傾向が強いのであろうか? 確かに、日本の科学技術は例えば新幹線のように「絶対に事故は起こさない!」というスローガンを掲げ、それを高いレベル実現することによって世界からそれなりの評価を受けてきた。しかし、フクシマの原発事故によってその絶対安全神話も崩れてしまった。にも関わらず、相変わらずか✖かの呪縛から逃れ切れていないのが現在の日本だろう。

 現実は0か1かでは決まらない。0.1とか0.8とか0と1の間には様々な段階があるのだ。予防接種の話で言えば、ワクチンには絶対に副反応があり絶対安全とは言えないが、ワクチンの毒素とインフルエンザウィルスの毒素を比べた場合、ウィルスの方が高くワクチンの予防効果が高いために予防接種が推奨されているわけで、ワクチンの副反応による健康被害がないわけではない。エロもこれと同じで、エロかそうじゃないかを完全に◯か✖かで決められるわけではない。先ほど説明したように、社会背景によって何をもってエロとするかは異なるし、何より、同じ社会の中でもエロと認定し規制をかけるには慎重な議論が必要となる。

何がエロか、差別かを議論すること

 具体的に『宇崎ちゃん』の問題について考えてみよう。日本赤十字社の「宇崎ちゃんは遊びたい」×献血コラボキャンペーンで貼り出されたこの作品のヒロインを描いたポスターの巨乳の描写が環境セクシャルハラスメントではないかという批判を浴びたのである。このポスターには単行本第3巻の表紙の絵が使われている。確かに胸が強調されているように見え、私も個人的には不快に感じた。しかし個人的な感情を判断材料にして規制をかけることは慎まなければならないだろう。何より、この作品は決してエロ漫画ではないのである。だとすれば、『宇崎ちゃん』と赤十字のコラボ自体には問題がないことになる。

 次に、この作品のヒロインの胸が大きいという設定について考えてみる(以降、簡略化のため巨乳という表現を使用する)。おそらく巨乳なのは作者の嗜好によるものが大きいのだろう。だが、巨乳というだけでエロと認定するのは問題がある。巨乳であることが規制の対象ならば、胸の大きい女性は街を歩けなくなってしまうということになってしまう。たとえば、ある日常的な風景を映した女性の写真に向かって「こんな卑猥なデカ乳でよく外に出れるな」というネットでしばしば見る発言は、明らかに特定の女性に対する差別発言である。

 巨乳の持ち主が卑猥なのではなく、それを見てイヤラシイことを考える方が卑猥なのである。やはり重要なのは胸がエロ目的で強調されているかいないか、という判断だろう。ポイントは巨乳なのかそうでないかではなく、女性の胸という性的な器官がエロ目的で表現されているかいないかということだ。たとえ大きくない胸であってもエロ目的で強調してあれば当然アウトである。『宇崎ちゃん』は現在まで3巻出版されており(2020年2月3日現在)、その中には当然ポスターには利用しない方が良い図柄も含まれる。これはこの作品だけではなく多くの作品に当てはまることだろう。例えば、第1巻の冒頭、ヒロインが登場するコマを見てみよう。

丈 『宇崎ちゃんは遊びたい!1』2018年07月 KADOKAWA ISBN:9784040727790


コマの上方1/3くらいのところに巨乳があり、しかも乳袋までしっかりと書き込まれている。顔は半分以上カットされており彼女のトレードマークである八重歯が書き込んである口が見える程度である。しかも駆けてくる彼女の胸が揺れる様を擬態語で「ゆさっゆさっ」と記してある。この図の場合、性的なアピールのために巨乳を強調していると判断される可能性が極めて高い。さすがにこの図でポスターを作り公の場所に張り出すことには問題が大きいと言わざるを得ない。

 胸が描かれているからと言って服を着ている以上、即エロというわけではない。同様に巨乳だからと言って即アウトというわけでもない。このヒロインにとって巨乳はチャームポイントなわけで、そこを上手く描きたいという意図も否定されるべきではない。ただし、確実に女性の胸は性的アピールのポイントなわけで、作者も赤十字の方の担当者も慎重な態度が求められることは確かだろう。

 もちろん、どのようなポスターを出そうとも胸を描く以上は不快に思う人はゼロではないし、批判を浴びせてくる人は現れる。重要なのは、物事は決して0か1かでは決まらないということだ。エロかエロじゃないかは決して ◯か✖かの二択では答えられないのである。であれば、大切なのは非難された時に、私たちはこのように考えてこのように判断してこの図案にしましたと説明できるように準備しておくことではないだろうか? もちろん、準備していたとしても指摘をよく考えた結果自分たちにミスがあったと思えばすいませんと謝り、必要があれば撤回し、次のチャレンジを行えば良いだろう。 実際、先頃、『宇崎ちゃん』と赤十字コラボキャンペーン第二弾が発表された。

このような歩みは評価されるべきだと思う。繰り返すが、大事なのは物事は決して0か1かのどちらかではなく、その間にいろいろな選択肢があるということを心に留めておくことだ。現代の日本の社会にとって、どのような画像が公のポスターとして相応しくどのような画像が相応しくないかを議論して、そのような議論を知的財産として蓄積し後につないでいくことが肝要なのではないだろうか? 

まさに、0か1かのどちらにも決められないことを判断し見解を出していくことこそ、人文学が得意とする作業だし、そういう知見を社会に還元することがこそが人文学の価値であることを言っておく。また、最近では自然科学の多くの領域でも決して物事は0か1かのどちらかに決まるわけではなく、人文学のような判断が求められるようなっている。最近、日本で文理の融合が叫ばれている理由でもある。

 エロは確かに無闇矢鱈と公共空間にさらして良いものではない。だからこそ何を規制すべきで何を規制すべきでないかをきちんと整理しておく必要があるだろう。表現の自由と言えば、全てが許されるわけではないし、逆にエロやヘイトというタブーを破りさえすれば簡単に芸術作品を作れるわけでもない。

エロやヘイトの話題となるとどうしても規制の話題が出てくる。しかし重要なのは、個人的に不快だからという感情で規制を求めてはいけないということだ。まずはなぜ自分が不快に思ったのかを自分の頭で考え、個人的な事案にせよ組織的な決定が必要な場合にせよ、それを周りの人の意見と付き合わせて何らかの解決策を探ることが重要なのではないだろうか。

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